長崎大学演劇部いろはというサイトでみつけた中山可穂の演劇のなごりです。
>http://iroha168.fc2web.com/history/jyaga.htm
88年のこと。。。ということは、中山氏はまだ演劇を続けていたころ?
コメントに「作者の中山氏がきてくださり・・・」というくだりがあり、なんだかちょっと心くすぐられるエピソード。
kaho_jaguar
長崎大学演劇部いろはというサイトでみつけた中山可穂の演劇のなごりです。
>http://iroha168.fc2web.com/history/jyaga.htm
88年のこと。。。ということは、中山氏はまだ演劇を続けていたころ?
コメントに「作者の中山氏がきてくださり・・・」というくだりがあり、なんだかちょっと心くすぐられるエピソード。
kaho_jaguar
中山氏の短編(前後編)が載ってます。
女性同士ではないところが珍しいといえば珍しい?少し軽めの一編です。
http://www.mf-davinci.com/kakioroshi/index.html
こちらの上のプルダウンメニュー「バックナンバー」から「光の毛布」を選べます。
(Webダ・ヴィンチ より)
hikarinomoufu
私はかなり中山可穂ファンだと思う。
新刊は必ず買うし、インタビューもチェックする。
サイン会は行ったらやばそうなので行かないくらいに思い入れがある(?)
そして、買った新刊をヨルと奪い合うように読んで(ニ冊買え)、自分が先に読んでしまったらもう感想いいたくてしょうがないので相手をせかす。
二人読み終わったらその夜は必ず大激論となる。
三日間くらいはひたすら舌戦が繰り広げられる。
ヨルもそうだけど、私もかなーーーりファンだ。
なのに~~なぜ~~~
中山可穂は最近いつも私を裏切るのだろー。。。
なんて斜め下から恨みの目で見上げたりして。
ジゴロ。
タイトルは、おそらく少し古臭い路線を狙ってると思う。
場末のバーがにあう。タバコの匂いと同じように女の匂いをまとったようなdykeをイメージしてるんじゃないかなと。
それは嫌いじゃない。
でもね。
そういう問題じゃないの。
ネタがどうのとか、フラメンコギターがどうのとか、いつものパターンだとかは本当にどうでもいい。
とにかく浅い、浅すぎる。
主人公でさえ、読み終わったらどんな輪郭だったのか思い出せない。
タイトルの短編「ジゴロ」とラストの「上海動物園にて」は相手を鉛筆でスケッチしたような影がおぼろげながら見える。
でも、どれもすでに読んだことがある話に見えてしまう。
新鮮さがないのは何故だろう??
そう考えて思い当たった。
主人公「カイ」とその恋人「メグ」の関係が浮かんでこない。
「カイ」がジゴロを気取ってあちらの女性、こちらの女の子と渡り歩く根拠となるはずの二人の関係が、カイの口からしか語られない。そこにあるべき長い長い歴史と重い恋愛の軌跡がどこを見ても見えない。見ようとしても見えない。
思わずヨルに言ってしまった。
「中山可穂、きっとスランプのとき編集者に「こういう話がうけるからかけ」と言われて仕方なく書いたんだよ」
ファンとしてはそのくらいの理由をつけておかないととても「ファン」を続けられないくらい憤りを感じる一冊。
反論を求む。
といってもきっとこれを好きって人は上読んだら何にも言いたくなくなるよねー。。ごめんなさい。(なぜか謝る)
(2003年2月発行・集英社)
gigolette
産経Webで見つけた「マラケシュ心中」についての中山可穂インタビュー。
http://www.sankei.co.jp/news/021027/1027boo011.htm
ただし、本人の言葉はあまりなく、作品の解説中心。
ただ、ひとこと
「自分の奥から出たあれほどストレートで強い言葉は、これまでなかったもの]
という言葉は作品への思い入れを感じさせる。
こんな風に一作一作を噛み締めながら書き重ねていく中山可穂はやっぱりとても充実した作品を書き続ける人だと思える。
maracheshe_interview
「サグラダ・ファミリア」
このタイトルの意味について。
やっぱり「血」で繋がる「家族」に中山可穂は限り無い憧憬を抱いているのではないかなあと思った。彼女の描く世界でいつでも家族って主人公が憧れて憧れてでも得られないものの象徴であり、自らの好きな相手を縛り付ける憎い存在でもあったりする。
つねに二人を結び付けるのは「個」としての存在であってほしいと思いつつ、同時に無条件に結ばれた「家庭」にかなわない思いを抱いている。
サグラダ・ファミリアはめずらしくその「個」と「家庭」を飛び越えて願いを成就させた物語のような気がする。
そこに本来の「恋愛」が存在しないのはやっぱり中山可穂が恋愛の永遠にあこがれつつ諦めていることの象徴なのかな。。なんて思ったりして。
次世代に残す「血」をもたない者としては、愛を次世代につなげていけたらな。。なんて思ったりする。
(1998年6月発行・朝日新聞社刊)
sagrada_familia
中山可穂の作品を読んでいつも感じるのは、「なぜこんなに奥にずかずか入り込んでくるのか」という思い。
今回のそれはとにかく前に後ろに奥に手前にと揺すぶられる。
何がなんだか分からないくらいに強く強く。
まるで無謀運転の車の助手席に乗せられているように、しまいには吐き気までくる。
それはやはり、中山可穂の世界が技術云々をはるかに超えて私に訴えかけてくるせいだと思う。
「マラケシュ心中」
まず、読んでいる最中にも感じたこと。
とにかく心をかき乱される。これはなんだろうという思い、なぜか悔しく思う気持ちが交錯して辛かった。
そうして最後まで行ったら、今度はすうっと上にあがってきた。
正直ラストは気が抜けた。
その理由を書いておこうと思います。
王寺ミチルという作家の分身キャラクターからこっち、作品中に出てくる人物は作者そのもの、あるいは作者の恋人が主役となって物語を形づくっていく。
「マラケシュ心中」の主人公絢彦の性格、相手のタイプから舞台設定までほとんどこれまでの作品と変わってない。
それが最初の不安を呼んだ。
「うーん。。。またなのか。。?」
という思い。
そういう不安で最初の十ページくらいは眉を顰めながら読みすすんだ。
ものすごく揺さぶられる。揺さぶられてぐるぐると引きずられはじめる。
正直なところ、私は中山可穂は文章力のある作家とは思えない。
特に構成にはいつも???と思う部分が多くて、今回も疑問点は多かった。
「花伽藍」が直木賞に推されたのはファンとして(ファンなのよ、まじで)心から嬉しかったけれど、驚いたのも事実。(このへん、意見の違う方の感想もとむ)
それでもなお、ひきずられる。毎回新作を期待する。出たら読まずにはいられない。
その理由はただひとつ。
彼女の描く主人公たちの抱く切迫した思いを自分も抱いたことがあるから。
そして、その切迫した思いゆえに自分を落として相手を傷つけ、泣きさけんだことがあるから。
その思いをナイフのように喉元に突き付けられる。激しい恋愛経験を、人生経験をした人は世の中にはたくさんいる。でも、それをこんなにもどくどくと脈打つままに見せつける作家は他にあまり見られない。
それが私にとっての中山可穂の魅力。
今回の絢彦。
この人にはこれまで以上に乱される。どうにも切ない。
それはこの主人公の年齢と経験値に自分が近いせいが大いにある。わずかな希望と大きな諦めの念。出会った人へのすがるような思い。たったひとつしかないと思いつめる強さ。
ぶんぶんと振り回された。
けれど、あえて言いたい。
絢彦はあるいは作家自身になってはいないか。。。?
今までの主人公と作家自身が重なってきたのは間違いないけれど、常にそのなかに一定の客観性が保たれてきたように思う。ミチルは旅先で出会った久美子と人生への希望をつないだ。ガリは透子との間の子供を育てながら、自分自身の未来をみつめた。なつめは振り回す恋人と決別してするりと自分自身に帰っていった。
けれど、絢彦は、どこにも行き着かない。
ラストは救いのようでいて、私には全く救いには見えない。
むしろ、網を無視して刹那の世界へ身を投じるように見える。
これまで中山可穂の世界に見られた、強いナルシシズムを超えた客観性のようなものがラストですっかり抜け落ちてしまった。
そんな風にいったら言い過ぎかな。。?
読んで数日しかたってない今、まだこの作品からうけたすべての印象を整理しきれていないので、結論は出せないけれど、とても複雑な心地がしている。彼女の感性がほんのすこし、ほんのすこしだけ曇ったと感じてしまったことは否めない。
私はそれでも中山可穂を気にし続けるだろうな。。。
生半可な恋愛小説では太刀打ちできない血潮を感じる文章。
きっと中山がたびたび各賞の審査員をうならせ、突き動かし、その作品を候補にあげさせたりする理由はこのあたりだと思っている。
技術をしのぐ感性が中山作品にはあると思ってる。
きっと、また私が「吐き気をもよおす」ような本を書いてくれると期待して。。。
(2002年10月・講談社)
marache
熱帯感傷紀行、後書きに大笑い。
私が以前この本を読んで不満に思っていた点をすぱーっと自分で言い捨てていて。。。言い捨てながらもくどくどといいわけするあたりがめちゃくちゃ中山可穂らしいというか。。おもしろい!
読み上げて恋人と笑った。
私は貧乏旅行ってしたことがない。
高校生のころ一年間の留学とやらをしたときにも、親がしこたま金を送ってくれた。
ロンドンで一日遊んで三百ポンド(当時のレートは恐ろしかった。。)なんて豪遊をしたり、今思うと背筋が寒くなる。
ああ、あのころのお金をとっておけばー。。。意味ないわね。
だから逆にこういう貧乏旅行の話を読むと、
「人間一生に一度くらいひとりで貧乏旅行しないと立派(謎)にはなれない」
なんてバカバカしいことを思ったりして。
中山可穂のなんだかたくましいようなたよりないような筆致で描かれるこの一人旅も、悲惨というより、「なんだかおもしろそう」とばかり。彼女の書いた「天使の骨」はまさにこの旅行で身籠ったに違いないというタイトル通りの感傷に彩られていてファンとしては「にやり」とする内容。
(2002年9月・角川文庫)
nettai_kadokawa
中山可穂が選ぶ10冊というテーマでのインタビュー。
同性愛を一貫して描いてきた「中山可穂」という作家がこれまでどのような形の恋愛小説に触れてきたのかというのが主旨であるように、中山の心動かされた文学の形が垣間見える内容となっている。
中山が松浦理英子に尊敬の念を抱いているとは以前アニースのインタビューでも読んだので印象に残っていたけれど、どうもこの二人の作家に通じる部分は少なく感じていたので、今回のインタビューでの中山の発言に納得した。
「敬愛する作家の一人だけれど、自分が読みたいものはちがう」
確かに、私も中山可穂と松浦理英子にもとめるものは全く違う。
記事が読めなかったという人のために、氏があげた10冊をここに書いておきます。
・「ナチュラル・ウーマン」松浦理英子 - 河出文庫
・「三角波」(「男どき女どき」所収)向田邦子 - 新潮文庫
・「いまだ覚めず」(「おめでとう」所収)川上弘美 - 新潮社
・「ロマンス」(「いつも心に太陽を」所収)つかこうへい - 角川文庫
・「愛の牡丹雪」(「愛の矢車草」所収)橋本治 - 新潮文庫
・「現代歌人文庫 春日井 建 歌集」春日井 建 - 国文社
・「トニオ・クレーゲル」トーマス・マン - 新潮文庫
・「ベント」マーティン・シャーマン - 劇書房
・「やけたトタン屋根の猫」テネシー・ウィリアムズ - 新潮文庫
・「蜘蛛女のキス」プイグ - 集英社文庫
戯曲が三冊も入っているのが「らしい」です。
ちょっと読みたいなと思ったのは橋本治の「愛の牡丹雪」。
タイトルからしてふるってるなーなんて。。
それからゲイの歌人「春日井 建」の歌集。堂々と男性を愛することを唄った貴重な歌人。
今思うと「マラケシュ心中」の絢彦のキャラクターはここから発したのかな。。?
ちなみに私が中山可穂と重なったのは、「ナチュラル・ウーマン」と「蜘蛛女のキス」の二冊でした。
kaho_davinch1
私は中山可穂にちょっと青春を感じてしまう年齢になっちゃいましたがどうにも気になる作家です。
おそらく彼女が演劇出身だからかな←芝居好き
なんだか恋人と彼女の描く主人公の面影が重なるせいもある。
中山可穂を私が最初に読んだのは「猫背の王子」でした。でもこれが私にとっては大失敗。私にとっては。。ね。
ビアンものだからと手にとったことにしっぺ返しをくらったようで、「この人は芝居が好きなのね。お芝居続けたほうがいいんじゃない?」と思ったのでした。ファンに殺されそうだな。。
で、その後何年も新作が出ようとなんだろうと読む気にならなかった。で、ひさびさに恋人の部屋で見つけた「感情教育」を読んだら、「うまくはなってるけどやっぱりテーマも動きがない。。」と思って。。それからは急速に興味を失ってしまってたのです。
去年だったっけ。「白い薔薇の淵まで」が山本周五郎賞をとったと知って。
正直なところ「うそでしょう?あの人が。。?」と思った。
でも、何年も読んでいないからそれで判断するのはおかしいかと思って(さらにまだ気になっていたのは確か)、改めて「白い薔薇の淵まで」を読んだら。。これが面白い面白い。
思わず恋人に云ってしまった。
「中山可穂、すごいうまくなってるよ!!」
。。。。。お前は何様だ?>自分
その後、賞のおかげなのか文庫本が出始めたのであらためて未読の本を読んでみました。
天使の骨、サグラダファミリア、深爪、近作の花伽藍。
全部読んで思ったのは、とにかくこの人が書きたいものってひとつなんだなということ。
でも、それを持っているのってとてもとても強い。
私は「天使の骨」が一番好きです。
というのは、やはり最初にも書いたけれど、私は中山可穂を「青春小説」って思っているから。
そう。中山可穂がどんなに「不倫」とか「略奪愛」とかいうコピーを帯にまとっていても、やっぱり彼女が書くものって伸びようとする人間が周囲によっていびつに歪められたことへの哀しみを書いているように思えるの。
それってひとりよがりだし、ヨワヨワだったりする。弱いことをさらけだすことで自分は強いんだと見せてはいないか。。?
その疑問は残る。
けれど、天使の骨のミチルは弱さを克服しようとしてる。すくなくとも。
それが中山可穂の他の作品にはない「大人への一歩」のように思うのね。
seishun_nakayama
天使の骨、大好きです。
中山可穂の中でもずばぬけて好き。
私の中ではヨルみたいに
「自分のことをいわれているみたい」
な感覚ってあまりないけれど、どこかで見た、どこかで感じた出来事を映像にして意識下に流し込まれているような直喩的フィーリングがある。特にぼろぼろの天使が大挙して通っていく映像ってあまりにもリアル。
私の前を天使が通ったら。。どうするだろうなあ?
ファドの中で脚本を書いていくシーン、皮膚が焼け付くような、喉がひりつくような痛みを感じる。
私が好きなシーンは、ミチルが久美子とタンゴを踊るところ。二人がお互いの目の中にしか存在しないような切実さをもってただ踊りに打ち込む狂おしい姿にとても惹かれるよ。それから最後。
遠くから駆け寄ってくる久美子の姿って、ミチルのシリーズを通して始めてみえた光明のようで、まぶしい。
あの本のハードカバーって表紙の絵がすばらしい。まるでそのために書き下ろされたようだなと思ったら、ウォーホルだったので二度びっくり。自分の死後、遠く日本で愛を描いたかけだし作家(この本の当時は)の表紙に使われるのって、ウォーホルならきっと喜んだだろうな。。とか思ったりして。
(1995年9月・朝日新聞社)
tenshinohone
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