(Painting by Georgia O'Keeffe "The Lawrence Tree")
*以下、微妙に映画「My Brother Tom」のネタばれを含みますので要注意*
Bastian様に教えていただいたベン・ウィショーという俳優の名前にはっきりと覚えがあったけれど、なんとなく気持ちが引けて、そのままにしていた。いつか見る宿題という感じで。
日本未公開だという作品「My Brother Tom」を教えていただいてネット上で見始める。あたしはできれば触れたくないのに、気づけば近づいているという種類の話。露骨なまでにその「痕」が主人公Tom(つまり、ベン・ウィショー)に診て取れる。どこからこんな俳優を連れてきたのだというくらいに役そのもの。これはまずいと思い始める。駄目なのだ。あたしがうっかり触れると落ちる穴であることは間違いないから、見るのはもう少し落ち着いてから、ととりあえず放置する。が、気になって仕方が無い。もう一人の主人公Jessicaの受ける性的虐待のシーン、泣き顔のまま抵抗できない少女の映像であたしの中の痛みのラインがぶつっと限界を超える。突然のこと。なんであたしはこんな映像を見ているのだと腹が立ってきて、一度映像を止める。なのに開いたブラウザを一時停止のまま、消す事ができない。どこかで続きを見るべきだという声が聞こえるのだ。
夜の森を見上げるTom。一場面にうつる木の姿が、ジョージアオキーフの絵を思い出させる。星に縁取られたうつくしい一本の木。うつくしく、不安定な木。あたしが昔から何度も何度も頭の中に描き続けてきた、The Lawrence Tree。その木とよく似た見上げる木のモチーフは、作品の中、繰り返し、場面の象徴として現れる。
同じように、けれど全く違うシチュエーションで夜空を見上げるJessicaのシーンがある。同じように木の間の空を見上げるアングル。
二人が過ごす森のパーティが終わって揃って見上げる夜空を切り取る木のシルエット。
一夜を超えたJessicaは、生まれて初めての朝を迎える。ごく普通の少女の、ごく普通の恋。
そしてその経験との断絶を経て続くのは、平らかで異質な者同士が接し合う恋とは明らかに違う、同化を促すようなSexと交歓。
Tomを失ったJessicaが見上げる空に星は無く、枯れた色の雲が覆う。
けれど人生が続く、と、Tomが額をJessicaに寄せて囁くのだ。
そうして君はいきてゆくのだ、と。
部屋から出られなかったJessicaと窓の外からしか近づけなかったTomが窓越しにほほを寄せ合う場面がある。
あたしはこういう気持ちを、どこかで抱いたことがある気がする。
おそらく。ものすごく原始的な執着と愛情とないまぜに混乱したまま、それを自分に許して。
けれどね、あたしは、Jessicaは決してTomを去ることができないのだ、と思うよ。
森を出なければ人は生きてゆけない。
Jessicaは生きねばならない。なぜなら選んだのはTomなのだ。ぼくは行けない、君が生きよ、と選んだのだと、あたしは思う。
Tom、君はけれど、そんなふうにしてはいけなかった。そんなふうにJessicaと一体になっては。だって生きている人間にはそれはできない。Tomの生を生きることは、つまり何も生きない、あるいはTom以外の全てを生きることになってしまう。なぜならTomは自分と引き換えに世界のすべてをJessに与えて行ったから。怒り狂うJessicaは義憤に燃えている。反射としての、義憤。その義憤から解放され、涙を流して微笑む彼女は、救われたのか。否、こんな残酷な生はないと思うのだよ。。
森よ、木々よ、Tomをどうか行かせないで。Jessicaのためにすべてを与えてはいけない。TomはTomの生を生きねばならなかったのだ。誰かに託してはいけない。森よ、木々よ、どうかどうか。
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