誇りの無い人間に対して、いつまでも振り返ることをするな。
もっと自分のランディングをレベル高くキープしろ。
あたしはあの人が好きだった。
それで、いい。
それ以下も以上もなにも、要らない。
誇りの無い人間に対して、いつまでも振り返ることをするな。
もっと自分のランディングをレベル高くキープしろ。
あたしはあの人が好きだった。
それで、いい。
それ以下も以上もなにも、要らない。
バースディケーキを友達と一緒に食べ、恋人が作ってくれたご飯を楽しみ、そうして更けてゆく夜の中で、恋愛観の話になる。たまたまそれを試されるようなシチュエーションがあって、それゆえに友達に動揺を与えたという事件があった。実を言えばあたしの中でその事件は続いているのだし、おそらく一生そういう微妙な感覚というのは消えない。でもあたしはそれだからそれ、なのだ。
並んで住宅街の屋根に反射する夕日を眺めながら、ベランダで彼女はビール、あたしは梅ソーダを飲む。
彼女があたしの左手をそっと握って言った。
「あたしは一生こんな感じで、いいや」
うん、とあたしも頷く。それはお互いその「一生」を諦めたり、あるいはただここにこうして座っていることの幸せだけを言っているのではない。むしろこうしてベランダで二人並んで座っていることの不安定さ、不確実さを含めての思いなのだと思う。それは彼女が「いいや」と言ってしまったあとで少し戸惑って、何かを言い足そうとしたことからも分かった。「一生っていうのはずっとこのままっていう意味ではなくて」
うまく言うことはできないけれど、あたしもやはり同じ気持ちではある。ただあたしの不安定さというのはそういう振れ幅を軽く超えているから、ときどき恋人の立場さえも跳び越して飛んでゆくところがある。だから結局、一生安定することなんて夢物語であること、そして本質的にはあたしは(彼女も?)それを望んではいないということ。
その感覚、というのはおそらく彼女とあたしにしか分からないものでもある。
そういう周囲には決して理解できない、あるいはしにくい感情を恋人との間に抱えていられることは、幸運なのかもしれない。それがたとえ幻だとしても、あたしは彼女とともにこの思いをこの世の最後の砦として抱いていられる。他の誰があたしに背を向けても、彼女だけはあたしの思いをともに抱いてくれる。そう思う相手がもっともあたしの抱く思いに傷つけられるかもしれないのに。あああたしは彼女を、もっと強くぎゅっと抱きしめていなければならないのだろうか。
主役の周りでちょろちょろコマネズミみたいに働きまわる存在は本当に苦手。
あたしもついそういう存在を重宝してしまう傾向はないでもないけど、心底奴隷根性な人ではないところが、うざい。あたしを僕を俺を見て的なうざさとは違って、気づけば自分が情報をぐるぐる回している気になっている人のうざさ。
で、実は本質的になんの関係もない人が気を引くためだけにうろうろと情報を流すのって見苦しい。
あたしはあんな頭悪そうなプロフィール書かないよ。
ばか。
カズオイシグロの「わたしたちが孤児だったころ」の中だったと思う。
親は結局、短期的に子供の信頼を失っても、親自身が身上としていることを子供に優先することで最終的には子供の信頼を勝ち得るというような下りがある。ある意味その通りだと思う。あたしは母が泣き喚く子供のあたしを連れて離婚したとしても、今頃にはその母の決断に感謝し、今は持たない母への尊敬の念を深めていたかもしれない。けれどその一方で、病室で三人に看取られた父の「社会人」としての幸福を思うと、何もいえなくなる。そういう瞬間、人の幸福や信頼というのは単層では成り立たないということを思い知る。
好きだなあと思う人が現れるときは、大抵気持ちの大嵐が起こる前。
恋愛以外の「好き」を認めなかった若いころとずいぶん違って、今はそれ以外の好きも考えられる。
それでも「揺れ」があるときは単純に好き嫌いだけで判断ができない。
揺れを持った瞬間に、単純な「好き」がさらに複雑な感情へと変化する。揺れ幅のある相手なら恋愛もアリということなのか、そうか。本当にあたしって単純だったんだ。。
現在、まったく揺れがなく、シンプルに「好き」といってくれる人の存在もいくつか得て、その中でも「あ、なにかこの人は違うなあ」と思う瞬間がある。あたしを非常に好いてくれているのは感じ取れるけれど、その「好き」さがかなり強いにも関わらずまったく恋愛の色を帯びていない。普段のあたしならそれで困惑するけれど、その人の場合はなぜか極めてストレートに「そうか。あたしのことがただ好きなのね。ありがとう。あたしも好きだよ」と返せる。それ以上のなんの揺れもいらないし、むしろ無くてよかったと。友達としてとか、恋愛で、とかの枠を完全に無視して、するっといってくれる「好き」だったり「大事」だったりは、どきどきはないけれど、とても心強い。
過去ログを探っては、アップしている。
二年前の過去ログは、某さんが頻繁にコメントしているので、正直読むのが辛い。
人はどの程度で痛みになれて、気持ちよくその過去を受け入れられるようになるのだろう。
なぜ、あたしはバランスを崩したのか。
追ってはくれない人間を、なぜ信用したのか。
いや、追わない人を信用してはいけないのか。
あたしは試したのだろうか。
答えはもう、見えない。
漁っていた古い本の中に、ロンドンのNational Galleryや、Tate Galleryの便覧があって、眺めているとここでもまた、気付く。画家の絵に描かれているものには、その時代それぞれに絵を支える陰影があり、それらは今の時代の乾いた感覚から、また二十年前のウエットさから、隔たりつつも同じFine Artという大きな流れを彩るカラートーンのグラデーションの礎を成している。画家の筆による絵の具の厚みは、確実に描かれている人物に色彩以上の重さと、油の『馴染まなさ』からくる独特の存在感を与えている。
画材の不自由から解放された写真家はけれど同時に、画材の生みだす世界観からも追放されてしまった。いや、むしろ描かれる世界のほうが、あるいは画材の変化によって変わる羽目になったような錯覚にふと、落ちる。だってホルスの絵筆が描きだす酒場の親父と、アントン・コービンの写すホリー・ジョンソン(ほら、すでに匿名性が奪われている)と、あたしが携帯カメラで撮るうちの猫(匿名性を飛び越えて、あまりにもプライベート)と、技術や芸術性の格差以外に、あまりにも違う空気感。密度だけが上がり切って飽和状態の携帯スナップにはこれでもかというあたしの(あるいは猫の、この場合『あたし』と『猫』が同義であることもまたポイント)私的情報が詰まっており、それを日記で知人友人に公開するという行為も情報の質を決定付けている。密度が高すぎて、絵筆という具体的な媒体の存在さえ許されない奇妙な緊張感。描かれる陰影は粒子ではなく、RGAの数字情報として細かにみる人の脳裏に写し込まれる。
油絵の具の厚み、かの時代の重さと光の粒子は、現代の空気感の中でどうすれば出せるだろう。いきなりホルスやレンブラントに飛べずとも、二十年前の光のもつ重さ、湿り気をあたしは記憶しているのだから。
ウエットな人形。すこしずつ形をかえながらぼんやりと見えてくる気が、する。
浅黒いロマの人の肌に、漆黒の巻き毛。瞳は何色だろう。まだ見えない。
冷たい雨の中、会いたい人に会ってきた。といっても、その人とは目で挨拶しただけ。応対してくださった助手の男性方がみな雰囲気がフェミニンで、なにかほっとする。同じ見知らぬ人でも、同年輩の女性に対しては大抵強い違和感があるのに(趣味指向をある程度知る相手はまた別)、フェミニンな男性にはより親和性を覚える。
あたしはひどい人見知りなのだ。人見知りゆえに初対面の相手に妙なテンションの高さで接してしまい、後日そのテンションを保つのに必死になって疲れてしまう。恋人にも指摘される、『驚くほどの愛想の良さ』の正体。仮面だから、恋人も「そういう時の琉璃はいまいち」と歯切れが悪い。完全に治すことは出来なくとも、もっと私自身楽になれる対人法があるはずだ。人見知りは人見知りでいいじゃないか。大人らしくそういう自分のあるがままで接したい。
そう思って出掛けた今日だったから、緊張を無理に押し隠すこともせず、助手の方の説明を聞いて、あの人にも敢えて話し掛けたりしなかった。
帰りぎわ、お邪魔しましたと入り口で頭を下げたら、部屋の一番奥にいたあの人は慌てたように作業の手を止めて、あたしの方を見て一礼、あたしがペコリと目礼したらさらにもう一回、しっかり視線をあわせて頷いた。それであたしは、あ、と思った。この人はあたしと同じ、人見知りなのだ。愛想がないわけでも、感じ悪くしようとしているわけでもなく。たった一瞬の目で、安心感を得た訪問。これが今後につながるか否かはまだ、未知数。
年を越してぽやぽやと浮かんでいた煩悩がぽしゃって相当深くがっくりときた夜に、けれど数分人形のことを考えてあれこれ見たり手を動かしたりしていると、たいていのことはどうでもよくなってしまう。
つまり、私のプレーンな優先順位はそういうふうになっているんだろう、と思う。
逆にいえば、煩悩に惑わされると集中力がとたんに落ちる。
誘惑に弱い性格なのだから、いっそ全てを切り捨てる勇気が必要、とあらためて知った、金曜日の夜。
こちらの部屋の人形と、あちらの部屋のヒトガタと、いったい何が違うのだろう。
とてつもなく高い技術と長時間の作業にたえうる忍耐。この作家はすごい人で、あたしのビスクへの興味のきっかけを作ってくれた作家。なのに、いつのころからか、絶対的オーラがどこにも感じられなくなった。あちらのヒトガタはビスクの永遠性を保たないのに、あたしの中にそれ以上の震えるものをくれる。なにが違うのだろう。
とうとう私がいる小一時間、誰も会場を訪れなかった。
展示を見終えて急な階段をコツコツ前のめりで下りているところを、怪しげな風貌の年配の男性が上ってきた。白髪が混じった肩くらいの髪をテキトーに束ね、中途半端な黄緑色のダウンジャケットの前をかきあわせながら階段を上がってくる。平日の閉廊間近な時間にのろのろ出てきた私を、誰なのか確認しようとするようにじっと見た。警戒も威圧もない、ただ観察する眼だ。商売人の眼ではなく、そこにいる人の、眼だ。
目が合ってすれ違うまでコンマ5秒。ギャラリーで麻痺した頭がいやいや働きだす。建物を出て50歩すぎ、ようやく、何のアンテナにひっかかったのかを識別する。夜想の編集長その人だった。
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