〝あたしはあなたの事が知りたいのにあなたは何にも話してくれないから、全部空想するしかないの〝
風琴工房「カスパー彷徨」
渋谷の小さなギャラリールデコにて8日土曜日七時の回、観劇。
うろ覚えと印象の台詞だけど、妙につきささる。断絶を、明白な断絶を思い出させる言葉。
あたしにはベストマッチングな芝居過ぎて痛いのだ。何が痛いって、この年齢にしてこの手のteenagerに嵌る物語を身に沁みて感じ入る、おのれの精神年齢の痛さだ。
〝あたしはあなたの事が知りたいのにあなたは何にも話してくれないから、全部空想するしかないの〝
風琴工房「カスパー彷徨」
渋谷の小さなギャラリールデコにて8日土曜日七時の回、観劇。
うろ覚えと印象の台詞だけど、妙につきささる。断絶を、明白な断絶を思い出させる言葉。
あたしにはベストマッチングな芝居過ぎて痛いのだ。何が痛いって、この年齢にしてこの手のteenagerに嵌る物語を身に沁みて感じ入る、おのれの精神年齢の痛さだ。
バレエを見るのは好きで、といって高いクラシックバレエのチケットをそうそう買えるはずもなく、ときどきモダンやら張り込んで海外の有名カンパニー来日公演を見に行ったりを二十代から三十代の前半はしていた。大人になって逆にそういう機会が減ったのは残念だけれど、ナマのバレエをあまり見なくなったこの年齢になって逆にやっと舞踏の面白さをすこしずつ発見しつつあるのはまた、不思議でもあり。
最近のきっかけはやはり昨年見た、ク・ナウカとガラシの合同公演での舞踏と即興演劇が混ざったような不思議な舞台。なぜなのか分からないけれど、最初に暗いホリゾントにたった役者たち、ダンサーたちの蠢く姿を見た瞬間から、自分の皮膚の毛穴が全開してそっちの空気を吸い込みたがっているような、言葉にしきれない圧倒的な体験だった。それと前後して、テレビでLaLaLa Human Stepsという舞踏集団の作品を見たのもある。それまでの私なら退屈してしまっていたであろう、何十分もの時間のひたすら踊り続けるストーリーがない画面を、食い入るように見ていた。あれ以来、身体というものが気になって仕方が無い。
このところの不調もあって、本もあまり読めないのだけれど、とりあえずふらふらと図書館に出かけた。
彫刻についての解説書をながめて手にとり、ぶらっと回って気付くと立っていたのは、舞踏のコーナー。ヒトガタの参考にしようと、バレエの写真集を眺めていて、目に入ったモーリス・ベジャール自伝。サブタイトルに心を惹かれた。「他者の人生の中の一瞬。。」舞台にたつ人間に限らず、時間芸術に携わる人間にとっては、おそらく共通の思いだろう。私は舞台関係者ではないけれど見るのは好きだから、その百万分の一くらいは意味がわかる気がする。
本を抱えて帰って、早速開いてみると、ベジャールという人が猛烈な勢いで文面から噛み付いてきた。うわあ。これはすごい人だ。私は上に書いたとおりバレエはほんの少ししか観ておらず、ベジャールの振り付けも有名なボレロを別カンパニーで観た程度なのだから、先入観も持ちようが無い。ダンサーを文章だけで判断するなんて気違い沙汰と承知のうえで、それでも彼の自伝はあふれ出る言葉に彼のエナジーが満ち満ちていて、誰にも真似の出来ない、けれど誰でもそうかと納得できる強さを秘めたものだった。
『ところで、バレエがうまくいったと言えるのは、バレエを観終わった人々が、われわれの踊りのことを語らずに、彼ら自身の生活を語ってくれるときである。嫉妬深い男は、そこに嫉妬心の一連のヴァリエーションを観ていただろうし、父親と問題のある男は親の権威についての絵解きを観ていた--などと、人々がいかに自分自身を投影しているかを知ることによって、私は多くのことを学んだ。人々は極端なほど自分自身を投影するのだ。自分を投影する---それだけをするのだ。』
モーリス・ベジャール自伝
こういうことは、バレエに限らず、あるいは舞台に限らず、すべての芸術において言えることだとも思う。本でも、読み終わったあとでその本の世界から拡がって読み手の経験に訴えることができたとき、はじめて「伝わった」といえるようにも思う。むろんその逆も言える。芸術作品は、読み手の小さな世界から想像もつかない広さへと世界を広げる手伝いもしてくれる。
ベジャールの筆はあちらへ飛んだかと思えばこちらへ飛んで、バレエの話も年譜に沿ったものの中にときどき回想がちりばめられて、思うまま時間をいったりきたりする、あまり正確とはいえない自伝になっている。けれど、ときどきダラダラと続く舞台の回想の中に、突然覚醒させるような彼自身の感覚の大波が訪れて、読んでいる私を彼の思考の渦に巻き込んでゆく。そしてそれらは、とても馴染みのある、私が覚えた感覚に限りなく近いものと感じる。嘘も真実も、おそらくは出来うる限り率直であれと願った結果がこれらの文章なのだろう。
『新しい出会いの時に「私はいまだかつて、君ほど深く愛した者はなかった」と告白するこの嘘の中に、どんな真実があるというのだろうか。それは、数少ない友人に打ち明けるように「これを言うのは馬鹿げている。でもこんどの愛は初恋と同じようなもので、今までこんなに愛したことはなかった」と繰り返しながら、真実と思い込んでいる嘘なのである』
人は嘘と真実をときどき裏返しに理解したり、あるいはまったく違う感じ取り方をしたり、もしかすると真理とはかけ離れたところを歩くものかもしれない。そのこっけいな姿をも、ベジャールのようなシビアな観察者・表現者はありのまま刷りだし、作品の中にあらわしていってしまう。精神性などという曖昧な表現ではなく、肉体という極めてconcreteな実体としての表現で。怖いけれど、決して目が離せない。
ク・ナウカの公演「奥州安達原」をNHK芸術劇場で舞台中継していた。
最初から最後まで見ていて、強烈な違和感は、あの台詞(宮城總創作の東北の昔の言葉)に現代日本語の字幕がついている。ありえないなあとがっかりしながら見ていたら、気付いたのはテレビゆえのカメラによる画面のカット。
そうか。舞台全体を肌で感じ取ることができない、東北弁、京言葉に関係なく台詞を言うスピーカーたちの気迫がカメラで切り取られ半減しているから、字幕の助けが必要になってしまうのだ。確かに画面だけを追っていたら、とにもかくにも分からないことにイライラしてしまうだろう。
舞台を見たとき、台詞のほとんどが分からないという前代未聞の事態に戸惑いつつも、その分からなさを別の言語(身体表現?と空気)で感じ取ることに注力し、その楽しさにわくわくした。そのわくわく感は、テレビでも言葉のリズムを感じ取れる瞬間にあったけれど、舞台のときの7割減という感じ。ああやっぱりク・ナウカは生の舞台だ、舞台である必要がある劇団だったのだと実感。
舞台前後のインタビューで宮城總が話していた中に、男の枠によって作られた社会という言葉があった。ある枠とある枠を対立させて、たがいが生き延びるためにその対立を継続させるという形。それに対するカウンターカルチャーではなく、ただはみ出てしまう存在としての女達、あるいは都の文化の枠からはるか離れた東北の異文化を、確かに私は芝居の中で感じた。
コミュニティに参加している人たちが、「字幕があって嬉しい」「初めて理解できた」と喜んでいる。正直にいって、私にはその人たちの気持ちが理解できない。だって、字幕というテキストだけに理解を頼ることが重要なら、なぜ生の舞台を見るのだろう?テキストは重要だけれど、少なくとも舞台の上のテキストは書き文字ではなく、役者から発せられる音と振動を感じ取ることで理解したい。戯曲を読むことは楽しいけれど、戯曲は舞台のために存在するものであって、舞台を見ながら戯曲を読むことは、意味を為さない。
あの舞台がク・ナウカのベストであったとはいえないかもしれないけれど、私にはあの耳障りの悪い理解できない言語は、痛快なリズムと、程よい異質さをもって役者の身体を通じて私に伝えられた。取りこぼした異文化を、分かりやすく噛み砕き、原型をとどめないまでの流動食のようにして管で喉から流し込まれることは、私には不快としかいいようがない。取りこぼしたものは、噛み砕けなかった異物感とともに、どこまでも私の中に留まり続ける。だからこそ、私はことあるごとにその異物につきあたり、「理解できなかった」ことを考え続けることができるのだ。
芝居に正しい観方はない。芸術に正しい観方はない。だから私の観方が正しい、とは思わない。異文化を理解できないゆえに否定する文化もまた、ひとつの文化の在り方かもしれない。そしてそのグルグルの中に、私自身も間違いなく取り込まれている。この輪をなんとかできないものか。できないから、私はまた立ち上がって歩きつづけることになるのか。また回る、回る、回る。回って先には谷底、あるいは安達原。
老婆、岩手は糸を繰る。長く尾をひく糸繰り唄を唄いながら、己の情念を、あくまで己の情念を果たすがための生贄を待って。
情念はときに高まり、ときに鎮まり、そのリズムは定まらずつねに乱れ拍子。乱れるのはむしろ、一時も岩手の心を人生を肉体を離れないから。女の心に沿うて揺れる。
情念は日常に宿り日常は人生に宿り人生は情念に宿る。ぐるぐる巡り無限大に膨張してゆく情念の渦から外れているもの。それは政(マツリゴト)と、それに踊らされる男たち。政は謀(ハカリゴト)。女の業と謂われる謀に、政に長けているはずの男たちはおめおめ足をすくわれる。女たちの生きる人生という渦に、男たちは決して馴染まないのだ。政に生きる彼らは国を故郷を人を命を魂を、巨大でちっぽけな地図の上、地球儀の上の駒としか考えないから。その駒ひとつひとつに宿る情念のあろうことを想像だにしないから。
政の駒として斬られ捨てられた女たちは憎悪の塊を愛と信じて孕みつづける。何度腹を切り捌かれ胎児を殺されようと、飽く事無く繰り返す命の営みに自らの情念をこめて、「せめてこの手で抱ける男の子を」と、また自らを欺く存在を後生大事に孕むのだ。
政というちゃちな人生ゲームなしでは生きられぬ、それを失えばたちまち日常まで失ってしまう男たちは、殺すことで女たちを彼女らの人生から引き摺り下ろし、ゲームに取り込む。殺すことでしか取り込むことはできない。殺した駒をゲームのゴール(英霊)としてまつりあげ、地球儀を片手にゲームの終焉を祝う。いや、祝っているのは終焉ではなく、永続だ。常に常に男たちは戦場で再会し、互いを殺しあう。殺しているのは自分自身であることを、正しく彼らは理解しているからこそ、ゲームは続く。永遠に。
矛盾に満ちた女たち亡き後、男どもは乱れたリズムをようよう捨てて、声をあわせて足踏み鳴らし、踊るリズムの裏拍子。
政のボールは頼りなく宙を舞い、舞い踊り、落ちる幕とともに、すべてが終わる。
暗転が謀(ハカリゴト)の終わりならば。今度こそ。本当に。
PMDDらしいという自覚をこの数ヶ月でようやくもってきた。
で、今月はわりとらくちんと思っていたら、来てからが辛い。身体の低調もだけれど、とにかく気持ちが萎える。なんに対しても。生きることに対してさえ、萎える。
でも、良いこともある。
いつもはぷいっと通り過ぎるところに立ち止まってウジウジと考えるのは、私の場合必ずしも悪いことばかりではない。
私のミーハーと物欲は今にはじまったことではなく、どちらも精神の均衡を保てないときの自己防衛本能としてシャキーンと装備される鎧のようなもの、らしい。ミーハー物欲どちらも尋常でない消費行動を伴うのだけれど、物欲のほうは治まったときの虚脱感が激しい。自分自身の本質に訴えかけるようなものは「物欲」では得られないものばかりだからこそ、核となる気持ちのバランスを失いがちなときに表面に現れるのだろうが。
私の核とはなんだろう。そんな答えの無いことを考え始める前に、どうやらきちんと行動したほうが良さそうだ。絣の技術をもっと知りたい。紬糸を作ってみたい。自分が感じ取る美しいものを、自分の手で生み出す努力をしたい。大量生産が悪いのではない。私の「物欲」には確実に「大量消費」によってしか癒されない部分があり、その空虚さを同時に私は大事にしていたりもするのだ。私が一生つきあってゆく私の中に溜まった「膿」は、簡単に搾り出して終わるものではないし、逆に大事にすることで大きくなってしまったりもする。もっと荒っぽく、もっといいかげんにわが身を傷つけたり、消費の波にさらしたり、繰り返さないと息ができなくなったりもする。
膿んで、爛れた私のある部分を、見捨てるでもなく、でもただ大事に癒すでもなく、ちらちらと横目で見ながら、ときどきわざと汚れたつめでひっかいてみたりしながら、ドラッグストアで買ってきたバンドエイドを貼り付けては騙し騙し抱えてゆく。それが私の「生産」であり「消費」でもある。なんと不毛な循環だろう。この循環の輪の最後に「生産」でおとしまえをつけてみせるという矜持だけが私を支えている。
来月、私が近年一番私の核に近い部分で心を揺り動かされてきた劇団が活動停止前の最後の公演を打つ。
十年前に波止場倉庫のがらんどうの空間に古代ギリシャと現代東京の時空を融合させる世界をうちたてた人たちを見て、私は帰りの駅のホームであまりの喜びに踊っていた。芝居帰りなのになぜかホームは倉庫とおなじガランとした冷たさで、芝居に熱くなっていた私は独りで頭からもうもうと蒸気をあげて、心は異空間にきっちりおさまってしまっていた。
最後となるであろう舞台で何を見せてくれるのかという思いより、私の中にひとつの幕が下ろされることへの動揺で、きちんと見届けられるのか、不安にさえなっている。こんな観客は迷惑だろうけれど。
色々な事情があって私は食べるという行為に対して過敏だったり妙に鈍感だったりのブレが激しい。
つまりは「ものすごく気になる」日常の行為のひとつ。
でも、「食卓」にはほとんどまったくこだわりはなくて、実際今食卓として使っているのはこたつだし、もともと食卓として買ったディナーテーブルは、自室を持たない恋人のパソコンデスクと化している。
昨日見にいった芝居。
劇団風琴工房「食卓夜想」。
http://www.windyharp.org/yasou/
作家・演出家のこだわりなのか、この劇団の作品にはわりと頻繁に「食卓」が重要な小道具として登場する。いや、小道具というより大道具?。。。もとい、舞台そのものとしての食卓・台所なのかもしれない。
愛する女性を殺して食肉する男の話はもろにキッチンが舞台だったし、息子を溺愛する母親の物語は「ユダの食卓」。奴隷として買ってきた少女と男が交わるのも食卓の上だった?ような。
昨日の「食卓」は血だけで繋がっているかりそめの家族と、母親の恋人、ゆきずりの少女の囲む、空想の食卓。
いってみればもう、ただそこで「食べる」という行為(芝居の中では食べる行為でさえない、ただのジェスチャー)をするだけしか共通項のない希薄な人間関係をかろうじて繋ぎとめる鎖としての食卓。
実を言えば、異性装ってここ数年の私にはかなりタブーであります。あまりにもテレビやら映画やらで消費されつくしていて、記号にさえならない不気味さがある。で、チラシを見たときに「うーん。どうだろう?」とちと躊躇したのですよ。なにしろメインの役者が女装してるし、どうみてもファッションゴスロリ入ってるし。
そして見てみれば、見事に演出家の思うツボ。
これはおそらく意図されるのが「異性装」を完全にただの「お飾り」にしていて、それ以上でもそれ以下でもない、「ほら、綺麗でしょ、似合うでしょ」だけのものに落とし込んでいるからなのだろうな。いや、意図するところはあったかもしれないけれど、それが意図された形のまま伝わる前に私にはツボに入ってしまった。サラサラヒラヒラのジョーゼット風ドレスが見事に似合った青年として。女装としての美しさを利用しているのだから当然あざといのだけど、おそらく役者当人の淡白さ?なのか、くどさがいい具合に薄まってる。まあお綺麗。
エンタテインメントとしての異性装と割り切りつつも、あざとさを最小限に。(正直いえば社会性ネタはこの際要らないかなと思いました。現実の世知辛さは見ないふりを徹底したほうが良い気が)
ちなみにコスチューム系・ゴスロリがお好きな方にもお楽しみいただける芝居です。
上記の通りのヒラヒラが似合う裏声の美青年。
赤頭巾ちゃんそのもの、これ以上なくキャラが立ってる女の子。
ゴージャスドレスで我侭気ままを絵に描いたような母親が食卓に仁王立ちして2丁拳銃振り回す。
その三人の幻想家族を現実に繋ぐのは、ゆきずりのイマドキ少女と母親の恋人。
上演場所は、自由が丘の瀟洒なマンションの一室、普段はギャラリーとして使われている小さなお部屋であります。ゆえに、一番前の席に座ると役者たちの毛穴まで見えます。じゃなくて。
上演は12月26日火曜日まで。
毎夜7時半開演。
芝居普段見ない方でも、元オタク少年少女に特にオススメ(笑)。
一昨日見に行った劇団風琴工房のプレビューは、死者の魂を七年間独りで弔いつづけた青年の話でした。すでにこの世に亡い妹と共に迎え火を焚き、食事をし、思い出話に花を咲かせる。散々笑ったそのあとで、死者が言うのです。もう思い出が増えてゆくことはないのだ、と。
毎年往く夏に兄を見送った道を、今年ようやく兄に見送られてあるべき場所へと帰ってゆく妹の魂があゆむ精露路。初演を見てから九年の月日がすぎていたことを演出家に知らされて、その重さと軽さに動揺した私にとって、あの芝居をみることそのものが精露路であったなと、しみじみ、文字通り全身に染み渡るように感じたのでありました。
役者も観客も交替している中で、大事な芝居を宝物の小箱をひもとくように開けてまた見せてもらえた。そういう芝居に出会えて本当に幸福であったと。
せっかく私の中にできた精露路を歩かせてもらったのだから、私もまた行くべき場所へゆけると思う。倦まず弛まず歩く、敬いたいひとびとの背中を眺めながら。
あの公演を見てから二ヶ月半がたとうとしている。
まだ一ヶ月くらい前だろうと思って日記を読み返してみたら、もう二ヵ月半。
てっきりもっと最近だろうと思って何度も見返して見つからず、「消してしまったのかな?」と思ったくらい。
未だに言葉にしきれないあの経験を、大事に胸の奥にしまっている。
二ヵ月半も前だったっけ。。?
昨日見たのは阿部一徳氏の語りおろし。
中野のはずれ、小さなスタジオにひな壇つくって椅子をぽかんと置いて。
パイプ椅子を並べた客席で楽しみにする客たちが見守る中、おやじが管をまいているようなちょっと面白い調子のアコーディオンを横に、ただ、語る阿部氏。
その場の空気を支配する声と表情と、圧倒的な存在感。なのに、終わってみれば私の中に残ったのは、広がるブラックアイドスーザンの野原と、目の前に飛び出してくるような星の散らばる漆黒の空。耳に残る、粉砕機の音。
言葉の海に飲み込まれたのに、残ったのは脳裏にひろがった想像の情景と音。
人の作り出すものって面白いなあ。役者が作り出したものを、私はただただ楽しみ、消化し、いつのまにか自分の脳髄にしみこませている。いったい誰が私の中に影を投げかけたのかさえ忘れても、きっと夕べ私の中に吹いた風と、澄んだ空気、そして降るような星空は忘れない。私が見たわけでもない、あるいは役者自身さえ見たわけでもないかもしれない、想像の世界を、あの瞬間あのスタジオのどこかの空間に存在する想像のスクリーンで共有したのだ。いや、共有したと感じた。それでいい。
あのク・ナウカの「ムネモシュネの贈り物」公演以降、私の頭の中のもやもやは相変わらずもやもやと、形を作るような作らないような曖昧な合体と霧散を繰り返しつつ、人の身体と心とそれが作り出す空気とに纏わりついている。この出来損ないの私の身体を、もっときちんと見て作りたい。この身体から作り出すものを信用するためには、それが必要なのかもしれないとも。
大好きな劇団ク・ナウカの阿部一徳氏のワークショップに参加してきた。
あの私にとって異世界幻想の源たる舞台に声を響かせる阿部サンと同じ空気を吸ってなにかしらの教えを得られるなんぞこのゴミダメの町にいるときでなくては出来ないことだから、是が非にでもと申し込みました。ええ。
たったの二千円で十五人前後の少人数、四時間みっちり身体を動かし、声を出す。おお、贅沢な時間。
そのテーマは「感覚を開く」ということ。
ゲームに熱中したり、ネットにはまったり、満員電車でイヤホンの音楽に逃げ込んだり、というのは閉じられた感覚の最たるものらしい。私はゲームも電車の音楽もないけれど、本の世界に完全に逃げ込むことはままある。この「逃げ込む」感覚は、本に没頭するのとは明らかに違う部分がある。はっと我に帰ることがないのだ。読み終わっても延々その世界にぐずぐずと居残る感覚が残る。
で、開かれた感覚というのはものすごく貪欲であることと繋がる気がした。
阿部氏曰く、このあらゆるチャンネルを開いてどんな周囲のことがらも逃すまいと開ききった役者が舞台にいると、それだけで人々は飽きずにその舞台に集中するのだと。
舞台の上で相手とキャッチボールする。
そのキャッチボールができない役者は閉じている。
ただ、自分の台詞をしゃべってタイミングをはかっているだけ。
ただし、日常から感覚を四方八方に開ききった生活は不可能に近い。
そんなふうにして過ごしていたら人は他人の感情やなにやらすべて間に受けてすっかり疲弊してしまうから、自然と人々は日常生活の中で感覚を閉じている。
今日のワークショップは、その日常の中で閉じられた感覚、体をいかにして開いてゆくかという作業を段階を追って行っていった。
瞳を閉じた状態の中でどれだけの情報を受け取りながら歩いてゆくことができるか。
周囲の人の声量を確認しながら、自分の声を響かせてどんどんと頂点を目指してゆく。そうしてまた、閉じてゆく。
頭の中のイメージを膨らませ、膨らみきったところで声と体で爆発させる。
締め切ったスタジオで大声あげて飛び跳ねるなんて非日常もいいところだから出来るといえば出来るのだけれど、枯れるほどに声を出すなんて、まずないから、結構すっきりする。身体を動かすのは苦手中の苦手だけれど、声と一緒ならわりと動かせるものなのだな。
正直言って四時間で体と心を開ききるというのは普段の訓練をつんでいない人間にとっては無理だけれど、一つ身にしみてわかったのはいかに普段から私が閉じきっているかということ。
声を出そうが身体を動かそうが、一度に集中できるのはせいぜい耳か目か鼻か、それらのうちの一つだけなのだ。たった一つに集中するだけであとは自意識過剰に周囲に自分がどう見えているかが気になる。。これは「開く」という行為からはほど遠い感覚なのだろうなと。。
こんなネガティブなことを感じ取ってしまうなんて。。。といわれそうだけれど、「私は閉じている」なんてことは、普段の生活の中ではほとんど意識していないし、カタツムリの殻みたいに閉じこもった状態でもそれで充分と思っている自分の「鈍感さ」に気づくことは、ものすごく貴重な経験だった。
それにしても、自分のチャンネルがあれほどたくさんあるものだということを、一つ一つ意識的にワークアウトすることで初めて認識した。それぞれのチャンネルをすべて全開にしての舞台というのは、丸裸で歩くのと同じくらいに傷つきやすいし、なんとも心もとない。そんな作業を延々続けている役者というのはなんと因果な商売だろう。。いや、実際には本当にチャンネル全開で舞台に立てる人というのはごく一握りなのかもしれないけれど。。
ふと、イエーツの言葉が頭を過る。
「裸で歩くことにはより多くの冒険心がある」
斜に構えたり、飾ったりすることはとても簡単だけれど、本当に勇気あるのは裸ん坊のままで真正面から人と対峙することだろう。
そういえば、ひとつ聞きたかったのに忘れてしまったこと。
「集中」と「閉じていること」との間にはどのような違いがあるのか。
今度質問してみようかな。。
雨の気配がそこここ漂う、蒸し暑い宵。空は、数万発の花火とそれを全国中継しようとするヘリコプターの合戦の様相。
なんとも不釣合いな光景。
それをはるか仰ぎ見る位置にて観劇。ク・ナウカ恒例の野外である。 ときどき爆音が炸裂したけれど、それに負けない舞台人たち。観客たち。みごとな蓮池を借景に、ガラス張りの上で展開する恋愛劇。男性社会から抜け出ようとする男と、そもそも男性社会によって破壊され尽くした女。どうあっても忠臣たる男を我が胸に取り込みたいマルケ王と、彼からも同一性重視の社会からも抜け出したいトリスタン。もともと男の社会など見もしないイゾルデの果てしなく激しく強い自我。この人でなければ、この人でなければと畳み掛けるように二人はただただ求め合い続ける。
私がこれまで愛した人の数。 恋人がこれまで愛した人の数。 今こうしてガラス張りの上で向かい合う彼と彼女。どれほど足掻いてせいぜい数千年か数万年の人の歴史の中、数十年の命を営んできた私たちの人生、その中でわずか数年をともにした人たちと、いまこの瞬間たまたま隣に並んでいる私たち。なぜ彼らだけが、私たちだけが特別だといえよう。明日あなたと私が離れていても、あるいはあなたと私のどちらかが、並んだ席の三人向こうの誰かと入れ替わっていたとしても、いったいいかほどの影響があるものか。
愛し合い、ののしりあい、睦みあい、やがて別れてゆく。
いや、私たちだけが特別であるわけがない。
それなのに、やはり隣り合っているのはあなたと私なのだ。彼と彼女ではなく、彼と私でもなく、彼女とあなたでもなく、あなたと私なのだ。
舞台の上、あなたがわたしがあなたがわたしがあなたがわたしがと繰り返す台詞を聞いているうちに次第に見えなくなってゆく。トリスタンの境界。イゾルデの境界。いつのまにか彼が私に、私があなたに、あなたが彼女になってゆく。いや、やはり私たちは繋がっているのか。いないのか。
巫女と化したイゾルデは、剣を放って空を睨む。すべての人々の「わたし」と「あなた」が、残らずイゾルデにのりうつるように。執りついて侵食して、やがてひとつになるように。やがて千に飛び散るように。
私はイゾルデになりたい。いやなりたくない。なっているのかもしれない。一生ならないのかもしれない。
すべての負とすべての正の可能性の化身。イゾルデ。
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