『美には傷以外の起源はない。単独で、各人各様の、かくされた、あるいは眼に見える傷、どんな人間もそれを自分の裡に宿し、守っている。そして、世界を去って、一時的な、だが深い孤独に閉じこもりたいときには、ここに身を退くのである。だから、この芸術と、ひとびとが悲惨主義と名付けるものとは、はるかに隔たっている。
ジャコメッティの芸術はあらゆる存在、のみならず、あらゆる事物のこの秘められた傷を見出だそうとのぞんでいる。この傷がそれらの存在や事物を照らし、輝かさんがために。私にはそう思える。』
ジャン・ジュネ「ジャコメッティのアトリエ」
(宮川淳・訳)
この文章を読んだとき、どっと涙が溢れて頬をしとど濡らした。静かに滲み出る喜びと、裏腹の淡い絶望の声が胸を満たす。私の心を聞き届けてくれるひとがこの一文に生きている、そういう思いと、この作家かとうにこの世をみまかっていることへの嘆きと。
ジャン・ジュネがここで書いているジャコメッティとは、画家で彫刻家のアルベルト・ジャコメッティ。私は図書館で読む本を探しているときにふと目に入った彫塑の教本を手にとって、偶然ページにあった写真を見た。それは妻アネットをモデルに作品を形作るジャコメッティの姿を映したアトリエの写真だった。いや、正確には彼の姿とはいえない。手前に作品とそれを触っているゴツゴツした指、遠景に妻アネットの胸から上が写っていて、彫刻家その人の顔はない。アネットとそれを写し取った作品がまるで連続した彫像のように写真の画面後ろから前へと続いていて、強烈なデフォルメの彫像と、厳しい表情の女性の顔が、それでもまるで重なって見えることに驚異を覚えた。この人の作品をもっとみたい、と感じた。ジャコメッティの名前は、彼が魅入られたように肖像を描いたといわれる日本の哲学者矢内原伊作と並べて記憶していた。
図書館のパソコンで検索すると、ジャコメッティの作品集とともに、ジャン・ジュネ全集がリストアップされてきた。ジャン・ジュネとジャコメッティ。興味を抱いて、分厚い作品集とともに書庫から頼んで出してきてもらい、なんとか抱えて持ち帰る。そうしてようやく読んだのが、この「ジャコメッティのアトリエ」だった。ジャン・ジュネの泥棒日記と花のノートルダムだけは読んで面白いと思ってはいても、それほどに強く惹かれたわけではなかったのに、この小文ときたら、書き出しからまるきり内臓に染み渡るようなのだ。
『いかに世界とその歴史とがある不可避な動向の中にまきこまれているように思えるか、そのさまを目のあたりして、どんな人間もおそらく、恐怖ではないにしても、一種の悲しみを味わったことがあるにちがいない。日ましに拡がってゆくこの動向は、いよいよ粗雑さを加える目的のために、ただ世界の眼に見えるあらわれだけを変えることを旨としているかにみえる。この眼に見える世界が今日の世界の姿なのであり、それに働きかけるわれわれの行動も、それが絶対的に別のものであるようにすることはできないだろう。』
これはこの数年ずっと私の頭を離れなかった懸念であり、文学にしろ芸術にしろ、触れるたびごとに危機感を抱いていて、けれどうまく掴み取ることができなかった、その不安の正体に相違ない。『不可避な動向』というのは私にとって日々の雑念に混じる、例えば雑誌、例えば書籍に紛れ込む、悲しいほどに擦り切れた言葉の数々であり、そこから発される強烈にネガティブな力が、私を、世界を、文学を、芸術を押し流してゆく。五十年以上前のフランスで揺れ動く世界を感じていたジャン・ジュネが、彫刻家ジャコメッティの作品のあり方を通して見る美の世界は、私にはたまらなく魅惑的、どうしてもこの眼でその場を見たかった、いや、ジュネ式にいうならば、体験したかった。今この現代にある自分としては、もうただジャン・ジュネの見た眼を通して、それを変換された文章を通してわが身体にしみこませるしかないのだけれど。まさにジュネの描き取ったジャコメッティその人と作品のあり方は、テキストが読者に体験させうるもっとも直接的、というよりむしろジュネの頭の中を覗き込むような形で私たちに見せ付けてくれる。もちろんそれはジャコメッティそのものではなく、「ジュネの感じ取ったジャコメッティ」には違いない。
ジャコメッティの作品集に掲載されている作品は、彫刻・絵画を問わず、なるほどジュネが冗談まじりに書いたとおり、針金みたいに細く描き取られたモデルたちが中心を成している。作品集にわりと小さく掲載されている「ジャン・ジュネ」の肖像は、彼らの豊かで賑やかな関係性とはあまり似ていない、暗く沈んだ色合いの中で、ジャコメッティのほかの作品には見られない丸い輪郭が浮かび上がる「ジャコメッティのジュネ」となっている。この肖像を見ることで、私はまた逆の体験をする。ジャコメッティから見たジュネ、の姿。つまり、二人の関係性とは微妙に混じらない、彫刻家本人の中にだけ存在し、ときに外にある本人と交流する、詩人の姿。ジャン・ジュネ全集の解説の中にかのジャコメッティのモデル矢内原伊作がいる。彼の書いた解説は、つまりは「ジャコメッティから見たジュネ」であり、全集収録の「ジャコメッティのアトリエ」への返礼のような形になっていて、解説を読み、ジュネの文章を読むと、ちょうどジュネとジャコメッティその人が、それぞれの頭の中から互いを見つめている合わせ鏡のような一対の作品が見えてくる。むろん矢内原の文章は外から見たものではあるから、本当の合わせ鏡は「ジャコメッティのアトリエ」とジャコメッティの描いた「ジャン・ジュネの肖像」であることは言うまでもないのだけれど。
世界の動向に強い危機感を抱きながら、自分自身の傷と深く深く対峙していた詩人と、彼の傾倒した彫刻家。そういう関係以上に、ジュネの文章とジャコメッティの作品集を見る私には、この二人の芸術的に透徹した視点の確かさと、どこまでも冷静で、けれど底に情熱をたぎらせた作品への思いが、ぐるぐると回りながら頭の中身を穿ってくるようで。それは私にとっては、冷静な読書ではなく、体験そのものだ。
『彼がつくった品物を産み出すものはジャコメッティの眼ではない。それはまさしく彼の両手である。彼はそれらを夢見るのではない。体験するのだ。』
こういうときこそ、感動の鼻水を垂らしながら心底思う。翻訳ではなく。ああ、フランス語が出来ればなあ!!
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