今年に入ってから二度しかここに書いてない。書かずにはいられないといいながら、どこかで垂れ流す事に慣れていたらしい。Twitterは思いつきを書き散らすにはぴったりのツール、というより、これもまた環境なのだな。ネットは環境、ということを感じる、感じ続ける今日この頃。以下、自分メモ。
一月いっぱい、吉本ばなな(よしもとばなな)を読んでいた。私がこの作家を熱心に読んだのは、第一次ブームのころ。ちょうど大学生になったころだったか、「キッチン」の映画にモデルだった川原亜矢子が抜擢されて、というようなくだりが雑誌「オリーブ」をにぎわせていた。古典名作や翻訳ものばかり好み学校の図書館で読んでいたあたしは現代作家を知らず、初めて知って読んだことで夢中になった。私が好んだのは彼女が卒論として提出したという「ムーンライト・シャドウ」で、死と背中合わせの川を眺める主人公を、心地よく泳ぐように感じとっていた。「白河夜船」はおそらく一生の一冊になった。作品が好きというより、この本の装丁、収められた一篇一篇、一冊の本がまとった空気を意識して好んだ。たぶんサガンの小説たち、文庫本たちに感じるような愛情と等価のような。
吉本ばななの作品群に共通するのはしかし、サガンの乾いた空気の中の湿った落ち葉のようなまつわりつく不快感ではない。あくまで心地よく、あくまでぎこちなく、洒脱など欠片もない、むしろ野暮ったい空気。作品がブームになったとき、なにかこじゃれたイメージをそこに求めた人々とのズレが彼女を時代の寵児に仕立てた。実際映画になった「キッチン」は原作の持つぎこちない不器用さの持ち味が、主人公二人に素人役者を据えることだけで表現されていて、実際その素人役者は素人ではありえない肉体(モデルというプロ)を備えているという非日常性のほうが先に立った。映画「キッチン」はそれはそれであたしは好きなのだが、原作とは完全に別物であると感じる。それが時代の吉本ばななの受け止め方、ブームの作られ方だったように思う。
「吉本ばなな」が「よしもとばなな」になってからの作品をあたしは読んでいなかった。ある時読んだ彼女の作品があまりにあたし自身と遠くなってしまっていたせいだ。そういう距離感というのは作家と読者の場合決定的で、一度離れた作家は光の速さで遠のいてゆく。知らない作家のほうがまだ近づく可能性を秘めてそこにあるくらい。今年になってから何故ふたたびこの作家に近づこうと思ったのかそのきっかけがどうしても思い出せないのだが、とにもかくにも読んでみた。「よしもとばなな」を。とりあえず彼女の唯一?の連作「王国」を一気に読んだ。
私が好きな「吉本ばなな」の初期作品は、主人公たちが作家と同列でありながらそれぞれ立っていて、別人格を備えている(と感じる)。突き放した視点があるのだが、「よしもとばなな」はどうやら意識して主人公たちを一人一人自分の分身として描いているように感じられる。あたしにはそれは微かな違和感があって、物語の広がりを欠いているように感じられるのだが、そうすることで確かに一つの「王国」をシリーズの中で成立させることには成功している。全ての人々(主人公側)が、作家の描く理想の王国の住人である、そういう小説がこの世にあってもいいだろうと、思う。ふとあたしの頭に思い浮かぶのは、ゴシックロマンの類。現代ならサラ・ウォーターズとか、古くはヘンリー・ジェイムズとか。世界を構成する価値観がシンプルから混沌へ移り変わる時代の作家たち。
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父の墓が決まりそうだ。母がなんとか歩いてゆける距離、タクシーを使ってもワンメーターで行ける小高い山の霊園に、父の眠る場所を見つけられた。4月の一周忌には納骨できそうなので母がほっとしている。以前抽選に応募して落ちた場所はバスで出かけてバス停からもかなり歩かねばならない距離だったので、気軽には墓参りできないのが難点だったので、今回のは理想に近い。
こうして日々は流れ、父は思い出になってゆく。不謹慎ではあるが面白いことに、亡くなった人は生きている人よりどんどん若返ってゆく錯覚がある。追い越してゆく側にとって、過去の人は常に若く、若く飛び去ってゆく。もう私は彼に対する屈託を口にする必要を感じなくなっている。その力の及ぶ場所、受け入れる場所において、死はときに優しい。
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姉妹猫がうちに腰を落ちつけつつある。
昨年の6月に保健所に持ち込まれたうちの二頭。虎縞のなかなかお洒落な猫たち、行動は野性。保健所から保護されて七ヶ月間、保護主さんのところで他の保護犬猫に囲まれて育ったせいか、人とのコミュニケーションがいまひとつ苦手らしい。前の猫もそうだったが、一般家庭に引き取られてすぐの保護猫は人とどう意思の疎通を図るかというスキルが低くて、じゃれついでに噛み過ぎて人間の手を傷だらけにしたり、もっとひどいと体に触られるのを怖がって逃げたりがよくある。姉妹猫の姉(勝手に決めた)は保護主さんが届けてくれて帰るなりいきなり遊び始めた肝っ玉だが、いかんせん人と遊んだ経験が浅いらしくて、すぐに爪をたてるは噛み付くはで遊んだNの手は傷だらけ。それでも懲りないNは毎日遊んで姉の遊びスキルをアップさせ、妹の警戒心も解くという効果も高めてくれた。
最初「妹猫は食べ物に興味が薄くて、その分姉猫が横取りするので」と注意されていたのが、今は明らかに妹猫のほうが食い意地汚い。どちらも皿に盛って出すとペロ食い。一気に食べて、洗ったように綺麗になるまで皿を丁寧に舐めあげる。今まで猫はダラダラ食べるものだと思っていたので、飼い主のせいだったのかと衝撃。
うちに来てもうすぐひと月、外から戻っても、すぐに出てくるようになった。とはいえ、まだどうかすると「え?知らない人?」という顔をされベッド下へ逃げ込まれるのが痛恨の一瞬ではある。
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