大事なこととそうでないことの間に引くべき線を、間違えないようにしなければ。
ああでもないこうでもないとスケッチしている間に日が落ち。なんとかタイプが決まったところで気分転換に近所の喫茶。あれからコーヒーが怖くて飲めず。同じ刺激物の紅茶にウーロン茶でなぜか安心。昨夏からコーヒーと炭酸飲料を避けていたせいでおおいに思い込みがあると承知してはいるのだ。
人形のイメージは描いたり考えたりしている間にみるみる変わる。頭の中に座っていたロマの人は少し横に置くことにして、ぐるぐる変化する脇にいたものを追ってみる。どうせ苦手なスケッチだから好きなように描き散らす。陰影と湿度、重さ、空気。それらが重要。ヘタクソのスケッチに必要なのは勢いと思い切り。割り切ったらようやく気に入るタッチがつかめた。後は量を描いて、ディテイルにまで詰めてゆく。もう少しやろう。
漁っていた古い本の中に、ロンドンのNational Galleryや、Tate Galleryの便覧があって、眺めているとここでもまた、気付く。画家の絵に描かれているものには、その時代それぞれに絵を支える陰影があり、それらは今の時代の乾いた感覚から、また二十年前のウエットさから、隔たりつつも同じFine Artという大きな流れを彩るカラートーンのグラデーションの礎を成している。画家の筆による絵の具の厚みは、確実に描かれている人物に色彩以上の重さと、油の『馴染まなさ』からくる独特の存在感を与えている。
画材の不自由から解放された写真家はけれど同時に、画材の生みだす世界観からも追放されてしまった。いや、むしろ描かれる世界のほうが、あるいは画材の変化によって変わる羽目になったような錯覚にふと、落ちる。だってホルスの絵筆が描きだす酒場の親父と、アントン・コービンの写すホリー・ジョンソン(ほら、すでに匿名性が奪われている)と、あたしが携帯カメラで撮るうちの猫(匿名性を飛び越えて、あまりにもプライベート)と、技術や芸術性の格差以外に、あまりにも違う空気感。密度だけが上がり切って飽和状態の携帯スナップにはこれでもかというあたしの(あるいは猫の、この場合『あたし』と『猫』が同義であることもまたポイント)私的情報が詰まっており、それを日記で知人友人に公開するという行為も情報の質を決定付けている。密度が高すぎて、絵筆という具体的な媒体の存在さえ許されない奇妙な緊張感。描かれる陰影は粒子ではなく、RGAの数字情報として細かにみる人の脳裏に写し込まれる。
油絵の具の厚み、かの時代の重さと光の粒子は、現代の空気感の中でどうすれば出せるだろう。いきなりホルスやレンブラントに飛べずとも、二十年前の光のもつ重さ、湿り気をあたしは記憶しているのだから。
ウエットな人形。すこしずつ形をかえながらぼんやりと見えてくる気が、する。
ユリイカの「人形愛」特集が思ったより、いや全然面白くなくてがっかり。
唯一印象に残ったのは今野裕一と天野昌直の対談にあった、ベルメール世代とポストベルメール。ことばは違ったけど、つまりはベルメールに大きな影響を受けた世代と、それを知ってはいても無関係に創作している世代の違い。私の言葉でいえばシモン系と可淡系。前者はヒトガタという具象の可能性を模索し、後者はヒトガタに自らの傷を塗りこめる。乱暴すぎる分類ではあるし、自分がそこに当てはめられたら猛反発するだろうけど、確かに今の多くの球体関節人形は、ベルメールという他者を必要とせず、最も近い自身に深く深く埋没してゆく。客観性を排除した主観のみのものが多い。
無論精神性とはまた別の部分で創作を繰り広げている作家も別にいて、そういう作家に対しては分類自体が無意味であることは間違いないけれど。
ユリイカの特集がつまらなかったのは、つまりはそういった二極性を中途半端に意識しながらも突き詰めもせず漫然とインタビューを並べてしまったせいもあるだろう。澁澤の名前もベルメールもただの記号として並べ、明らかにそういった係累から外れる恋月姫を確信犯的に中心に据えながらも、対談相手が金原ひとみでは人形語りに役者があまりにしょぼすぎて、創作談義にさえならない。
ユリイカだからもう少しなんとかなってるんじゃあと期待したけど、人形ムックにもなりきれない中途半端な雑誌のプライドだけが先走りにがっかり。
図書館でロダンの伝記を借りてきて読んでいる。初版が1960年代というこの本は、どこでみていたの?というように細かな日常の出来事と社会背景が微妙に入り交じっていてとても面白い。ロダンの子供時代の狂ったようなお絵描き熱がリアル。
今の時代ならおそらくもっとフィクションとドキュメントの境を明確に描くだろう。その境の明確さが実は一番人の判断力を鈍らせるのだけれど。
浅黒いロマの人の肌に、漆黒の巻き毛。瞳は何色だろう。まだ見えない。
冷たい雨の中、会いたい人に会ってきた。といっても、その人とは目で挨拶しただけ。応対してくださった助手の男性方がみな雰囲気がフェミニンで、なにかほっとする。同じ見知らぬ人でも、同年輩の女性に対しては大抵強い違和感があるのに(趣味指向をある程度知る相手はまた別)、フェミニンな男性にはより親和性を覚える。
あたしはひどい人見知りなのだ。人見知りゆえに初対面の相手に妙なテンションの高さで接してしまい、後日そのテンションを保つのに必死になって疲れてしまう。恋人にも指摘される、『驚くほどの愛想の良さ』の正体。仮面だから、恋人も「そういう時の琉璃はいまいち」と歯切れが悪い。完全に治すことは出来なくとも、もっと私自身楽になれる対人法があるはずだ。人見知りは人見知りでいいじゃないか。大人らしくそういう自分のあるがままで接したい。
そう思って出掛けた今日だったから、緊張を無理に押し隠すこともせず、助手の方の説明を聞いて、あの人にも敢えて話し掛けたりしなかった。
帰りぎわ、お邪魔しましたと入り口で頭を下げたら、部屋の一番奥にいたあの人は慌てたように作業の手を止めて、あたしの方を見て一礼、あたしがペコリと目礼したらさらにもう一回、しっかり視線をあわせて頷いた。それであたしは、あ、と思った。この人はあたしと同じ、人見知りなのだ。愛想がないわけでも、感じ悪くしようとしているわけでもなく。たった一瞬の目で、安心感を得た訪問。これが今後につながるか否かはまだ、未知数。
こちらの部屋の人形と、あちらの部屋のヒトガタと、いったい何が違うのだろう。
とてつもなく高い技術と長時間の作業にたえうる忍耐。この作家はすごい人で、あたしのビスクへの興味のきっかけを作ってくれた作家。なのに、いつのころからか、絶対的オーラがどこにも感じられなくなった。あちらのヒトガタはビスクの永遠性を保たないのに、あたしの中にそれ以上の震えるものをくれる。なにが違うのだろう。
とうとう私がいる小一時間、誰も会場を訪れなかった。
展示を見終えて急な階段をコツコツ前のめりで下りているところを、怪しげな風貌の年配の男性が上ってきた。白髪が混じった肩くらいの髪をテキトーに束ね、中途半端な黄緑色のダウンジャケットの前をかきあわせながら階段を上がってくる。平日の閉廊間近な時間にのろのろ出てきた私を、誰なのか確認しようとするようにじっと見た。警戒も威圧もない、ただ観察する眼だ。商売人の眼ではなく、そこにいる人の、眼だ。
目が合ってすれ違うまでコンマ5秒。ギャラリーで麻痺した頭がいやいや働きだす。建物を出て50歩すぎ、ようやく、何のアンテナにひっかかったのかを識別する。夜想の編集長その人だった。
可淡ってレーサーレプリカ乗ってたのかあ。。らしいといえばかなりらしい選択。潔く才能とともにあまりにも若い命を散らせてしまったひと。
潔くないあたしは、新年早々ぶつぶついいながら人形への妄想を膨らませているところ。四谷シモンの「人形作家」を買ってきてすでに二回通り読んで、図書館で文楽の本を二冊、幻想文学の特集本一冊。ときどき本を読みに行く喫茶店で新作とやらのチャイを飲みながら、妄想をメモに書き写す。やはり紙に書いていると頭が落ち着いていながらも入り込んでいくのでいい感じ。
夜になって恋人と近所の銭湯で露天風呂につかりながら、人形談義。あたしには人形を「幻想」と捉える感覚がどうにもこうにもつかめない。いや、つかめなくていいんだけど。人形は人形であって、ほかの何でもなく、芸術でさえない。だから枠も必要なく、何を作っても良いというそらおそろしいまでの自由さがあるのだから。
人形はあたしにとって妄想をたくすために必要なconcreteな媒体なのだ。それはもう、具体的な、具象そのもの。抽象からおそらくもっとも遠く、しかしだからこそ近いのだろうか。ふむ。そうなると幻想そのものということか。あたしにとっては、媒体。巫女。そうだな。。巫女が一番近いかもしれない。
同じく恋人と澁澤龍彦談義。しかしあたしは澁澤の著作のうち読んでいるものは限りなく偏っている。毒薬と人形と、博物誌ものの一部。なんというか、generalistな彼を網羅することは常人にはできないだろうと思うし、網羅することに意味があるとも思えないから。もし澁澤が生きていて、目の前にいたらぜひとも話をしてみたいけれど。しかし恐ろしく混沌として実りの多い時代だ。澁澤と寺山修司と唐十郎と、三島由紀夫と。。ありとあらゆる場所で同時代にさまざまなサロンが展開されていたのだろうなと思うと。すさまじいパワーだ。現代の日本が腑抜けてしまっている(ように思える)のは、この時代にすべての膿や生気やなにもかもを吐き出してしまったせいではないかと思えてしまう。
紙は良いのだけれど、やはり持ち歩けるpcが欲しい。というわけで、格安PCのEee PCの発売を待っているあたし。できればLinuxのまんまのやつがいいんだけど、日本版はどうやらwindows XPが入るらしい。やだなあ。システム重くなるだけじゃん。ちっちゃいPC持ち歩いて、妄想をじゃんじゃんインプットしてゆきたいのだ。
頭の中をぐるぐると回る様々なことを考えていても、結局グルグル回るばかり。
考えながらざっくざっくと勢いよくカッターで人形の芯を削っていたら、あっという間に左手の親指から人差し指の狭い範囲を合計五箇所負傷。二箇所は血がとまらないのでバンドエイド圧着。名誉の負傷といいたいけれど、単にカッターの扱いが下手なくせに大胆なだけ。いつもどこか怪我をする。
でも刃物はわりと好き。
中学生くらいから肥後守という小刀が気に入って持ち歩いて、カッター代わりに使いまわしていたら、日常的ないじめの中カッターを突きつけられたとき役にたった。別に刺したわけではない。持っているということが大事だったから。持っているということを知った少年達が、さっと散ったのだ。あの小さな肥後守を恐れて。笑ってしまった。
刃物は私を傷つけてもあっさりと手を離れる。でも芯になる発泡スチロールはちっとも離れない。ぐずぐずぐずぐずあたしにまとわり着くから、嫌い。
それでも勢いだけで全パーツの芯が出来た。明日から粘土にとりかかれる。ようやくホッとする。粘土は好きだから。
グルグル考えていても怪我しないし。
あたしはどうなりたいのか、どうしたいのか、考えながら迷いながら、また粘土を捏ねる夜がくる。
会社帰りに最寄り駅のそばのリブロへ寄ってみる。
別に何をということもなく眺めていたのに結局人形の写真集のコーナーをみつけてしまう。
ひさしぶりに見た、ハンス・ベルメールの写真集。
やっぱり欲しいな、と思い、気付けばレジへ。この金額を衝動買いは正直痛いけど、ベルメールの写真は繰り返しみたいのだ。ベッドで。
見れば見るほどにうつくしい曲線。
球体関節人形の美は曲線、ラインに極まれると思っている。
ベルメールの人形の曲線は肉感的でどこまでも指でなぞっていけばなにか宇宙の秘密にたどり着けそうな果てしなさを感じる。うわあと思いながら、やっぱり見る、見る、見る。
言葉を使ったやりとりの難しさというのは、いやというほどに感じていて、けれど、それでも捨てられない。ひとさまの日記を読んでふむふむと思ったりしている。テキスト、言語というのはなにもこうしてキーボードからタイプアウトされる文字ばかりを云うのではなく、誰かが何かしら行動をした、それを見た、受け取ったがわの「解釈」というものもまた言語化の一つであり。あたしはそのプロセスを楽しんだりいらついたりする。いっぽうで、「解釈を加えるんじゃないよ」とひとりですごんでみたりもする。人形に惹かれるのはそこに圧倒的に「存在する」ものだからかもしれない。言語は「存在」しない。ただそこにあって、誰かの解釈を待つ。人形は解釈の余地もありながら、間違いなく実体としてそこに在る。ああ、結局あたしはテキスト人間なのだ。
テキストに人形化では意味がない。限りなく自由な人形を。ヒトガタを。ベルメールのヒトガタは、ヒトガタという条件に縛られる範囲の中で自由だ。たとえ頭がなくとも、足が四本ただ繋がっていようとも、そこには明らかに「ヒトのパーツ」としての縛りがある。
それじゃあ、すべてのパーツを備えて、かつヒトガタの制限から自由な表現はありえるだろうか。
水や香りの良いお茶を浴びるように飲みまくり、ひさしぶりのカフェインで朦朧とした頭で、複雑に入り組んだヒトガタの曲線をながめて居る。もう少しバランスと思い切りのよさが必要だ。あたしの不自由さに未練なくバイバイする、思い切りのよさが。まだなのか?まだ。。。
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